Lyapunovの定義する「心」とは何か?
「心とは何か?」、これは人類が長きに渡って問い続けてきた重要なテーマです。人間は心で生きているとほとんどの人が賛同するでしょうが、心とは一体何かと定義するように求められると、とても難しいものです。このページでは、弊社の定義する心の理解について、先人たちの理解と比較しながら記述します。
- 神と肉体の融合の場としての心
- 認識は対象と主体の双方によって形成される
- 現代文明の根本「自由意志」
- 無意識の発見
- 自由エネルギー原理
- 記号接地問題
- 物質・情報・クオリアの三次元を跨ぐ心
ⅰ)AIに感覚はあるのか?
ⅱ)赤色はどんな色か?
ⅲ)シニフィアンとシニフィエ
Ⅰ)神と肉体の融合の場としての心
古代ギリシャにおいて、心はプシュケーによって動いていると理解されていました。プラトンは、プシュケーを理性(logos)、欲望(epithumia)、気概(Thymos)によって構成されるものであると説きました。真善美の無限の世界であるイデアから生じる善く生きようとする理性と有限な肉体の生理から生じる欲望が融合する場として、心は理解されていました。
東洋においても、心は、天と通じた心の働きである魂(コン/タマ)と肉体から生じる心の働きである魄(ハク/シイ)の融合の場として理解されていました。
新約聖書のピリピ人への手紙二章13節ー14節には、
神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです
とあります。夏目漱石が理想の境地とした「則天去私」に通じるように感じる方は少なくないのではないでしょうか?
Ⅱ)認識は対象と主体の双方によって形成される
では、心の具体的な働き方は、どのように理解されてきたのでしょうか?カントは、直観を生み出す刺激を受け取る力として感性を定義し、その感覚が何を意味しているのかがわかる能力として悟性を定義し、さらにその意味の価値について理解し自らの行動に反映させる働きとして理性を定義しました。
さらに、カントは幾何学が分かるという思考の流れについて分析することで、人間が何かを理解するには、その人の経験に依拠しない(ア・プリオリな)世界を認識する力が存在していると主張しました。
人間の心には、そのような能力があるものとして、後天的にその能力を成長させることができると考えるところにカントの哲学の普遍性が感じられます。
仏教の学派である唯識論もまた、人間の心がどのように動くのかについての深い洞察を示しています。唯識は、人間は心の世界に生きているのであって外に存在していると信じているのは識(感覚)に過ぎないのだと主張します。その心の世界には、五感(五識)よりも深い意識・末那識・阿頼耶識が存在するとします。阿頼耶識は、本人が生まれる以前から積み重なったものも含む大きな因果によって、なるべくしてなる今をつくりだしている摂理を指します。さらに、自分が存在していると認識し様々な執着の元になる心の働きを末那識に求めます。ある心の状態が、その人とこの世の中の過去からの因果で生じていると考えるところに唯識の特徴があります。
カントにしても唯識にしても、人間は外部世界の実在をそのまま感じているのではなく、過去の出来事や人間に与えられている心の力にその感覚は影響されていると捉える共通性が見て取れます。
Ⅲ)現代文明の根本「自由意志」
歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、現代文明の根源には「自由意志」が存在しているという信仰があると主張しています。「自由意志」とは、外部の何者にも影響されずに独立して自分の心の状態や言動を決定できる能力のことを指します。近代哲学の父とされるルネ・デカルトは、「哲学原理」の中で「われわれの意志に自由があり、われわれが多くのことに、意のままに同意することも同意しないこともできるということは、きわめて明白であるから、このことは、われわれに生まれつきそなわっている、最初の最も共通的な概念のうちに数えられるべきである。」と述べています。
現代の資本主義は顧客が自分で消費行動を決定できる能力があることを前提にしていますし、民主主義にしてもやはり自分の投票行動を自分で決定できる能力があることを前提にしており、現代文明は「人間には自由意志が存在する」という信念に支えられていることが分かります。
Ⅳ)無意識の発見
精神分析学を創始したフロイトは、様々な特徴的な心身の不調を訴える患者の中に、身体の異常に還元できない病を抱えた患者が存在していることに気付きます。これらの患者に対して、何気なく思い浮かんだ言葉を連想して繋げていくという自由連想法と呼ばれる治療法を確立しました。本人が自覚していない記憶や感情が「無意識」という領域に存在しており、この無意識が本人の言動や心に大きな影響を与えていることを、症例を積み重ねることで論証しました。
フロイトは、無意識を含めた心の構造を、イド(無意識)と超自我(与えられた規範)とを取り持つ自我(意識)と表現しました。
人間の心には、本人が自由に動かすどころか認識することすらできていない無意識の領域があることを指摘した精神分析学の台頭は、自由意志の理解に修正を求めるものとなっています。
Ⅴ)自由エネルギー原理
カール・フリンストンが提唱した自由エネルギー原理は、脳が入力された情報をもとに外部世界に対する仮説を更新し続ける(自由エネルギーを最小化し続ける)というタスクを行っているという命題によって、脳がどのように心を動かしているのかの全体を統一的に説明できる理論として注目を集めています。
自由エネルギー原理の特徴は、脳の情報処理を数理モデルとして表し、数学的に証明を進めたところにあります。自由エネルギー原理は、ベイズ推定を行列式で表記するモデルを構築し、認知や行動、情動、学習などをその関連式によって表現できることを明らかにしました。
また、生命が外部環境に調和して生存するための情報処理の過程を統計的に処理した数式が、ベイズ推定から出発した数式と同等になることを示しました。このことによって、生命の進化圧の結果、自由エネルギー原理に従う脳が誕生した必然性が示されています。さらに、神経回路の電気的パターンを表現する数理モデルが、自由エネルギーを最小化する数理モデルに一致することを示し、脳が自由エネルギー原理を実現しているように電気的に活動していることが明らかになりました。
自由エネルギー原理は、情報理論、進化生物学、実際の脳の電気的な活動の3つのアプローチから、その妥当性を証明し、そこから演繹的に心の理解を展開しています。これまでの個々人の実感や哲学的思索、臨床医学などの経験的なアプローチから導出される心の理解は「心の性質を説明しようとするもの」であったのに対し、自由エネルギー原理は、脳の情報処理を生命の生存の原理から統一的に展開しており、その説得力と内容の豊かさは従来の心の理解と一線を画しているように感じられます。
自由エネルギー原理と関連する理論である構成主義的情動理論は、身体予算管理の要約である「気分」と個人が置かれている「文脈(〇〇な状況だから、△△の行動を取るべきである)」とを脳が言葉によって統合する過程で「情動」が形成されると主張しています。さらに、人間の感情は生まれつき脳に備わった各感情の中枢に由来するという古典的な脳科学の情動に対する理解を退けています。
構成主義的情動理論は、人間が後天的に獲得した「言語(概念)」が脳の情報処理を効率的にすることを確認し、人間は「獲得した情動概念」のみを経験できることを主張しています。感情とは、後天的に獲得するものであると主張していることも、これまでの人類の心の理解と比較して特徴的なものに映ります。
Ⅵ)記号接地問題
ⅰ)AIに感覚はあるのか?
さて、情報理論としてまた脳の電気的な挙動を説明できる理論として定説になりつつある自由エネルギー原理ですが、この自由エネルギー原理にも説明不能と思われる心の性質も知られています。それは、我々が心があると感じている「感覚」の存在を証明することです。
この問題を扱うために有力とされているのが、記号接地問題です。
「中国語の部屋」という思考実験があります。中国語がわかる人が部屋の外から部屋の中の人と文通をするとします。部屋の中の人は実は、中国語が全くわからない人で、部屋の中で与えられた中国語の質問に対して、膨大な回答のマニュアルを使って適切な中国語の回答を提供する状況を想定します。この人は中国語の意味を理解しているわけではなく、単に記号を操作しているだけであり、自分が何を質問されて何を答えたのかを分かっていません。しかし、記号を操作することで適切に返答できているため、部屋の外にいる中国語がわかる人は文通ができていると誤解してしまいます。
今のところ、感覚や意識を持たず、意味を感じることができないとされるコンピューターは、この「中国語の部屋の中の人」と同じように、意味が分からないけどアルゴリズムに基づいて情報処理を行うことで、感覚や意識を持っている人間と同じように文章や画像を処理したり生成したりすることができます。Chat-GPTなどの文章生成AIは、ほぼ自然に人間と会話することができます。
さて、このように考えた時に、逆に我々人間が意味や感覚・感情を感じられる仕組みはどこにあるとされているのでしょうか?自由エネルギー原理では、この問題に答えることはできません。弊社はこの問題は絶対に解くことができない問題であると考えています。
ⅱ)赤色はどんな色か?
赤色とはどんな色なのか?、説明を求められて答えられる人はいるでしょうか?りんごの色とかいちごの色、血の色と言っても、「じゃあそれはどんな色なの?」と聞かれれば、また別の「トマトの色」「さくらんぼの色」としか答えようがなく一向に迫ることができません。では、赤色とは物理学的に640-770nmの波長の光であると言われても、私たちは普段から「今見えている光の波長は短いなぁとか長いなぁ」というように色を識別しているわけではないので、色という感覚はまた別のものであることが分かります。
さらに、「赤色の光が目の網膜の錐体細胞を刺激して、視神経を通って後頭葉の視覚野の赤色に対応する視覚中枢の神経細胞を活性化させること」が、赤色なんだと言われたらどうでしょうか?確かに、このプロセスによって、私たちは赤色という視覚体験をするかもしれませんが、視覚中枢のある神経細胞が発火すること(その内部のNaとClの濃度が変化すること)が赤色だと言われても腑に落ちないと思います。結局のところ、脳内で起きている物理学的な事実をどれほど詳細に追っても、私たちの色という感覚そのものを説明することはできないのです。
ⅲ)シニフィアンとシニフィエ
このように、脳の電気的なパターンを解析し、情報理論によってその解釈を行うことで、その個体が赤色を感じているであろうことまでは迫ることはできたとしても、赤色という色の感覚そのものには迫ることはできません。この感覚・感情・意味内容などの質感のことを脳科学ではクオリアと呼びます。クオリアは、物質と情報に密接に影響を受けるものも、これらによっては説明することが絶対にできない別次元の実在と解釈することができます。
弊社は、この関係を言語学のシニフィアンとシニフィエという言葉によって解釈しています。「赤色」という文字の羅列、640-770nmの波長の光という情報、脳内で赤色に相当する神経細胞が発火したという物理的な事実は、いずれも赤色を指し示すものも赤色という感覚そのものではないので「シニフィアン(指し示すもの)」と定義します。一方で、その人が感じている「赤色というクオリア」のことを「シニフィエ(指し示されるもの)」と定義します。
「ごめんなさい」とある人が発言した時、その人が本当は反省していなくて社会通例上仕方なく「ごめんなさい」と言ったのであれば、「シニフィアン」は「ごめんなさい」であるけれど「シニフィエ」は「悪いとは思っていない」というように整理されます。
Ⅶ)物質・情報・クオリアの三次元を跨ぐ心
クオリア(シニフィエ)は、物質や情報とは異なる心の重要な要素ではありますが、だからといってクオリアのみをもって心と呼ぶことには無理があります。なぜならば、その人の心の内容は、外部世界の状態やその人の身体の状態、その人の神経回路、そしてその人が獲得してきた概念に影響を受けるからです。心は、物質や情報だけでも、クオリアだけでもなく、これらの三次元を跨ぐところに存在しているように考えられます。
物質や情報の側面は数学的に客観的に示すことができる一方で、その人が感じているクオリアはその人の実感に支えられています。例えば、多くの人間は「愛」の実在を信じていますが、どれほど「愛している」というシニフィアンを示しても、「愛」というシニフィエそのものを指し示すことはできません。しかし、「愛」というシニフィエの実在をその実感によって確信している人は、シニフィアンに反応して他者の「愛」を信じることができます。この時、シニフィアンによって「愛」の実在に気付くことができるのは、その人が過去の経験という物理的な実在と、「愛」という概念を学習したという情報の次元の実在とを獲得しているからでもあります。
このように心は、物質・情報・クオリアの三次元を跨ぐ形で機能しています。この理解は、冒頭で記述したプシュケーや魂魄の理解に通じるものがあるようにも思います。
自由エネルギー原理によって、シニフィアンについては客観的な分析が可能になりましたが、シニフィエについてはその人が本当に実感しているのかを見極めていく必要があります。客観的・論理的に分析する力である「知性」と感覚・感情・意味を個々に感じる力である「感性」を調和させることで、はじめて心とは何かに迫ることができると弊社は考えています。
弊社の心の理解を4か条にまとめています。